2026年7月、SK Hynixの株価を参照する株perp(株価に連動する無期限先物)の価格が数分で約19%下落し、多数の口座が清算されました。現物の株価はまもなく元の水準に戻りましたが、清算されたポジションは戻りません。B-26で事実経過に触れたこの事件を、今回は価格の仕組みまで下りていきます。

鍵になるのは、価格の拠り所を誰がどのように作っているかという一点です。HIP-3市場(外部の事業者が開設・運営するperp市場)では、それを担うのは第三者ではなく、市場を運営する事業者であるデプロイヤー自身です。

読み終えるころには、HIP-3市場に触れる前に何を点検すればよいか——そしてそもそも触れるかどうか——を、自分で判断できるようになるはずです。

価格の拠り所は誰が作っているのか

オラクルのおさらいとコア市場との違い

オラクル(チェーンの外にある価格をブロックチェーンに取り込む仕組み)の基本はB-5B-8で整理しました。Hyperliquid本体が運営するコア市場では、各バリデータが複数の大手取引所の価格から算出した値をもとに、加重中央値を取る方式が採られています。HIP-3市場は事情が違います。公式ドキュメントは、オラクルはプロトコルのレベルでは完全に汎用であり、価格ソースの選定・計算方式・配信のすべてがデプロイヤー(市場を設計・運営する事業者。B-26)の責務だと定めています。操作されにくいデータフィードを選ぶ責任まで含めて、デプロイヤー側にある建て付けです。

株perp最大手のtrade.xyzでは、Relayer(リレイヤー。同社が運営する価格配信システム)が約3秒ごとにオラクル価格などを計算してチェーンに送信します。更新に使うアドレスは公開されており、配信の履歴そのものはオンチェーンで誰でも検証できます。

「運営者の数字が優先される」構造

清算や証拠金の評価に使われるマーク価格の役割はB-6で見たとおりです。trade.xyzの市場では、このマーク価格は3つの材料の中央値として決まります。そして3つのうち2つは、運営者側のRelayerが供給する値です。Hyperliquidの板から計算されるのは残る1つだけで、中央値を取る以上、2つを出す側の数字が結果を左右します。この構造について、Hyperliquidの共同創業者自身が「運営者の数字が勝つ」と述べたと報じられています。

オラクルには2種類のリスクがある

オラクルのリスクというと、誰かが価格に嘘をつかせる操作の類型がまず挙がります。薄い価格フィードを意図的に歪めて資金を抜く手口はB-8で触れたとおりです。もう一つ、見落とされやすい類型があります。オラクルが正直に拾ってきた価格そのものが壊れているリスクです。参照先の市場で実際に成立した、しかし実勢とかけ離れた約定を、オラクルが手順どおりに中継してしまう場合がこれに当たります。本記事の主役は後者です。後述するSK Hynix事件は、ハッキングでも悪意の操作でもありませんでした。

参照先の強さは銘柄と時間帯で変わる

アンカーの強弱は段階で変わる

アンカー(価格の拠り所となる外部の参照先。B-27)の強さは一定ではなく、銘柄と時間帯の組み合わせで段階的に変わります。特に強いのは、米国大型株の立会時間中のように、厚い本市場が開いている状態です。夜間や時間外になると、参照先は流動性の薄い場に移ります。米国株の夜間セッションを供給するのはBlue Ocean ATSという私設取引システム(ATS。取引所以外が運営する売買の場)です。韓国株のプレマーケット(本市場が開く前の早朝の取引時間帯)も参加者の少ない時間帯です。週末や休場日には外部の参照先そのものが消え、プレIPO銘柄には外部の価格が最初から存在しません。

ここで押さえておきたいのは、弱点は週末だけではないという点です。B-27では週末の内部的な価格形成を現象として見ましたが、SK Hynix事件が起きたのは、外部参照が生きている時間帯でした。

週末・休場中は板の動きを追いかける設計

外部の価格が使えない時間帯、trade.xyzのオラクルは内部モードに切り替わります。直近の外部価格を出発点に、trade.xyz自身の板でついた売買の気配を、EMA(指数移動平均。新しい値ほど重みを付け、時間をかけて平均に取り込む計算方法)で少しずつ反映していく方式です。取り込みの速さを決める時定数は30分に設定されており、板の厚みが足りない側の気配は反映されません。外部のデータが戻れば、次の更新で外部価格に復帰します。なお、この時定数30分は2026年4月末からの現行仕様で、それ以前は別の設定でした。オラクルの仕様は運営判断で随時変わる、という実例でもあります。

値動きには3段階の制限がある

急な価格変動に対して、仕様上は3つの階層の制限が置かれています。①クランプ:1回の更新で動かせる幅の上限で、オラクル価格・マーク価格とも0.5%までです。②平滑化:前述のEMAが、急な変化を一度に取り込まず時間に分散させます。③バンド:マーク価格が基準価格からどれだけ離れられるかの上限で、幅は1を最大レバレッジで割った値です。外部の価格を取得している時間帯にも、休場中にも、常に適用されます。最大20倍の銘柄なら±5%、最大10倍の銘柄なら±10%になります。バンドの端に価格が近づくと、基準価格が端まで移動して、そこから新しいバンドが張り直されます。これを付け替えと呼び、回数には上限があります。3つは役割が異なり、クランプは瞬間の変化幅を、平滑化は取り込みの速度を、バンドは到達できる範囲を抑えます。ただし、いずれも変化を遅らせ、区切る仕組みであって、一方向に続く入力そのものを止める仕組みではありません。

プレIPOは常にこのモード

Unitree Roboticsのような未上場銘柄には、参照できる外部の株価がそもそも存在しません(SpaceXも2026年6月の上場までこの区分でした。Unitree自身も2026年8月中旬に上海市場への上場を控えており、上場後はこの区分を離れる見通しです)。プレIPOのperpは、前節の内部モードが常時適用される市場です。出発点となる初期価格も運営者が裁量で決めた参照価格であり、公式ドキュメントはこれを「予想でも上場価格の示唆でもない」と明記しています。B-27で保留した「何を参照して価格が決まるのか」への答えは、外部のどの株価でもなく、trade.xyzの板の中の売買だけ、ということになります。

SK Hynix事件の構造:仕様どおりに、損害が出た

何が起きたか

2026年7月28日の朝(韓国時間)、韓国で2025年に開業した新しい私設取引システム(ATS)であるNextTrade(NXT)のプレマーケットで、寄り付き直後にSK Hynix株がわずか1株、前日終値より約30%安い値段で実際に約定しました。この約定は複数のデータプロバイダを経由してtrade.xyzのオラクルに中継されました。その過程で、出来高の少ない約定を除外する処理は働かず、価格はそのまま反映されました。SKHYNIX perpのマーク価格は数分で約19%下落し、約960口座・約5,700万ドル(約90億円)が清算されたと報じられています(清算総額は集計により6,000万ドル超から8,000万ドル超とするものもあり、幅があります)。現物のSK Hynix株は直後に元の水準近くまで回復しましたが、清算された建玉が戻ることはありませんでした。

「仕様どおり」と「損害」の間

trade.xyzは、オラクルは仕様どおりに動作したと説明しました。故障でも侵入でもなく、実際に成立した約定が定められた手順で反映された、という立場です。そのうえで同社は、法的義務のない裁量の補償を実施し、これは一度限りの判断であって前例にはしないと明言しました。外部の分析には、約19%という下落幅はこの市場の可動域の仕組み(バンドと、その付け替え1回)で許容される上限とほぼ一致していた、と説明するものもあります。仕様の側から見れば制限は機能していた計算になりますが、それでも仕様が正しく動いても、損害は出るのです。

論点として残ったもの

事件後の議論で最大の論点と指摘されたのは、外れ値処理の欠如です。ほぼ参加者のいないプレマーケットの1株の約定が参照価格を決められる設計でよいのか、そうした時間帯・市場を参照先に含めた選定は適切だったのか、という問いが残りました。補償が保証ではなく裁量だったことも論点の一つです。再発防止として、trade.xyzは自社のオンチェーン板への重み付けを強める方針などを示しています。外部の異常な約定には強くなる半面、この対策は運営者の板が運営者のオラクルを決める度合いを深めるという別の側面を持ちます。参照元にも動きがあり、NXTは2026年9月に、急変時に売買を一時的にオークション方式へ切り替える対策を導入する計画だと報じられています。なお、2026年5月には別のデプロイヤーが運営していたSpaceXのperpでも、約30分で4割超下落するフラッシュクラッシュが報じられました(単一の大口の売り注文が引き金になったと報じられています)。

デプロイヤーの権限と利益相反

権限の全体像

事件を運営者の側から見ると、デプロイヤーが持つ権限の広さが浮かび上がります。B-27で「公式ルールは確認できず、運営判断に委ねられる」と保留した企業イベントへの対応も含めて、一覧にします。

権限内容ユーザーへの影響
オラクルの定義・運営価格ソースの選定から計算方式・約3秒ごとの配信まで担う清算・ファンディングの基準価格が運営者の設計と入力に依存する。SK Hynix事件はこの権限の帰結
上場・廃止銘柄の追加・廃止は運営判断何が取引できるかは運営者の選択。上場基準の開示義務はない
取引停止・強制決済全注文の取消と、その時点のマーク価格での強制決済が可能ポジションは運営判断で閉じられうる。デプロイヤー撤退時に凍結決済された実例がある(B-26
マージン・レバレッジ設定上限レバレッジや証拠金の方式を設定清算までの距離が市場ごとに違う。バンド幅も最大レバレッジに連動する
手数料の変更追加手数料の料率を設定・変更できる取引コストが運営判断で変わりうる
配当・分割等の企業イベント対応公式ルールは執筆時点(2026年8月)で確認できず、対応は運営判断配当落ちや分割時の調整が保証されない(B-27

伝統的な株式市場では、上場審査・値付けの基準・売買停止・手数料は、取引所・清算機関・規制当局に分散して担われています。HIP-3市場では、これらの中核機能を1つの民間チームがまとめて握ります。表の中でいちばん見落とされやすいのが1行目です。マーク価格の材料のうち2つを供給する立場は、他のどの権限よりも直接に損益へ届きます。

利益相反はどこにあるか

価格の配信者と、その価格で動く市場の運営者が同一である。これがHIP-3の利益相反の出発点です。デプロイヤーの収益は出来高に連動する手数料であるため、出来高を増やす方向の設計(高いレバレッジ、多くの銘柄、24時間365日の継続)と、慎重な市場設計(厳格な外れ値処理、疑わしい時間帯の参照停止)は逆方向に働きえます。また、デプロイヤーが自分の市場で売買することを禁じる規定は、Hyperliquid・trade.xyz双方の公式ドキュメントの範囲では確認できません。

一方で、規律が皆無というわけでもありません。Relayerの配信はオンチェーンで検証でき、オラクル仕様は公開されています。2026年3月にはS&P Dow Jones Indicesがtrade.xyzにS&P 500の正式ライセンスを供与しており、指数の本家とのデータ契約は、品質面での外からの縛りとして働きます。ただし、ライセンスは規制でも監査でもなく、オラクル運営の全体を監督するものではありません。SK Hynix事件での裁量補償も、義務ではなく事業継続のための評判維持と読めば、間接的な規律の一つに数えられます。

スラッシングは利用者を守らない

B-26で保留したスラッシング(デプロイヤーが預けた50万HYPEを、バリデータ投票で没収できる仕組み)の実効性を、ここで検証します。公式ドキュメントが定める没収の基準は、プロトコルの正しさ・稼働・性能を脅かす行為の防止、つまりネットワークの健全性です。SK Hynix事件のように、チェーンは正常に動き続けたままユーザーが清算されたケースがこの文言に当たるのかは曖昧で、設計ミスと悪意ある行為を区別していない、との指摘もあります。実際、今回の事件で没収の投票が提起・実施された形跡は確認できていません。加えて、没収されたHYPEはバーン(焼却)されるだけで、被害者への補償には充てられません。ユーザー保護は現状、デプロイヤーの自主対応に頼る構図です。

取引前の点検リスト

ここまでの構造を、取引の前に確かめる項目へ落とし込みます。

  • オラクル仕様が公開されているか。trade.xyzならdocs.trade.xyzのPerp Mechanics各ページ(Oracle Price・Mark Price・Discovery Bounds)と資産別ページで読めます。仕様を公開していないDEXは、それ自体が警戒材料になります
  • いちばん弱い時間帯の参照先は何か。夜間やプレマーケットに値を付けているのが誰か(米国株の夜間はBlue Ocean ATS、韓国株は参加者の薄いセッション)を、休場日カレンダーと合わせて確認しておきます
  • バンド幅と自分のレバレッジの関係。バンド幅は最大レバレッジで決まります(20倍なら±5%、10倍なら±10%)。可動域いっぱいの急変(SK Hynixでは約19%)に自分の証拠金が耐えられるかを、先に計算しておくのが安全です
  • 配当・分割の調整ルールが公開されているか。trade.xyzでは執筆時点で明記を確認できません
  • プレIPOは別枠と心得る。外部アンカーがなく、初期価格は運営者の裁量です。補償は保証ではないこと(一度限り・前例としないと明言済み)も併せて押さえておきます

この点検リストは、確認できれば安全だという保証ではありません。確認できない項目が多いほど、それは取れないリスクだと判断する材料です。読んでも分からない仕様の市場では取引しない、という消極的な原則も選択肢に入ります。なお、SK Hynixのように、現地市場の株価を参照する銘柄と、ADR(米国預託証券。米国市場で取引される代替証券)を参照する銘柄が並んで上場している場合、参照市場が違えばリスクの出方も違います。自分が触れるのはどちらの市場かの確認も、点検に含めておくと確実です。

まとめ:仕様どおりでも損害は出る

HIP-3市場の価格の拠り所と、それを運営するデプロイヤーの権限を確認してきました。要点を振り返ります。

この記事のまとめ

  • HIP-3のオラクルは設計・運営ともデプロイヤーの管轄。マーク価格の3材料のうち2つも運営者側が供給
  • アンカーの強さは銘柄と時間帯で変わる。夜間はATS、週末は内部モード、プレIPOは常時内部
  • SK Hynix事件は、薄い市場の1株の実約定が仕様どおり反映され、約960口座・約5,700万ドルが清算された事例
  • 権限は上場から強制決済・手数料まで運営者に集中。スラッシングは利用者への補償にならない
  • 補償は一度限りの裁量。保証を前提にした取引はできない

取引の前に打てる手は3つあります。仕様の公開場所を探すこと、いちばん弱い時間帯の参照先を特定すること、バンド幅と証拠金の距離を測ることです。判断の軸に置きたいのは、故障がなくても損害は出るというこの事件の教訓です。仕様どおりに動く市場を選ぶことと、その仕様が自分の取れるリスクに収まっていることは、別々に確かめる必要があります。

次の記事では、単一のDEXにとどまらないHyperliquidの広がりを、金融インフラという視点から第6章の総括として整理します。

本記事は情報提供を目的としたもので、投資助言ではありません。暗号資産は価格変動が大きく、元本割れの可能性があります。記載の数値は最終確認日(2026-08-13)のものです。

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